私の暗黒時代

私は、幼稚園時代は、耳鼻科に通っていたりして
あんまり幼稚園に通った記憶がありません。
ただ、下駄箱が解らなくて、行きたくないと愚図った記憶はありました。

小学校は、欠席は、多かったですが、基本的に学校が嫌いではありませんでした。

中岡先生、ケロ君がいたし、内向的なりに遊び友達もいました。
何より、無理しないで自分のペースで行く事が出来ました。1、2年生までクラス替えがなく、担任の先生に理解がありました。

ところがです。3年生になると全てが変わってしまいました。クラス替えがありました。(2クラスしかなかったのですが。)
担任が大久保(仮名)先生と言う名でした。

先生との三者面談のようなものをしました。
母が、これまでの状況を説明しました。
先生は、メガネの奥から「私は、このような問題のある子供を扱うのは、得意です。」

と言う主旨の話をしました。
私は、違和感を感じました。母もやはり違和感を感じたようでした。

こうして、私の暗黒時代は、幕を開けました。
これまでの先生は、私のペースを理解していたので
遅刻、早退にわざわざ連絡しませんでした。

大久保先生は、遅刻、早退の度に理由を連絡しなくては、いけなくなりました。
今、考えればそれが常識だったと思います。

ただ、クラスの雰囲気が一変しました。遅刻、早退するずる休みする子。
クラス中が、学級委員のように、私を責める雰囲気が出来ました。

しかも、先生は班を作り、誰かが失敗をしたら
班全員の連帯責任になり、体育館の床の雑巾かけを命じました。

私は、失敗が多く班での不満が溜まりました。
私は、学校に行くのが辛くなりました。
クラスでいじめられるようになりました。

母に相談し、母から大久保先生に伝わりました。
先生は、私に「おまえが、騒ぎすぎるんだ。」と逆に、怒られました。
私は、先生が苛めの張本人に感じました。

母に言っても仕方がない。

私は、泣いて帰る日が増えました。
あの頃の救いは、飼い猫でした。
飼い猫のパールは、私が泣いて帰ると廊下の奥から走ってきました。

私が、玄関を開けると同時にピョンと飛んで、私の胸に飛び込んでくるのです。
私は、思わず抱き抱え、笑うのでした。
パールは、私が泣いて帰る時だけそうするのです。
私は、泣きながら笑いました。


こんな日が続いているうちに、空咳が出るようになりました。自分で止めようとしても止まらないのです。ところが家に帰るとピタッと止まるのです。
喘息発作とは、全く違う空咳でした。

私の喘息は、咳喘息ではなく、気管支炎喘息なので
咳は出ないのです。
咳と発作は、全く別モノでした。

自分でも、精神的なストレスと感じてましたが、
自分の意思で咳を止める事が出来ませんでした。

ある日、大久保先生は、咳をする私に「おまえは、学校にいる時にしか咳が出ないだろう。」
と言ったのです。

確かにその通りでした。私の自律神経は、先生に抵抗しました。
家に帰ってからも、咳が止まらなくなっていました。
母は、私を病院に連れて行きました。
病院の診断は、神経性ノイローゼでした。
即、入院になりました。


私の暗黒時代は、終わりました。入院したその日より咳は、出なくなりました。
環境が変わった私は、6人部屋で段々元気になりました。
小児病棟なので、年も近く毎日色々なゲームをしました。
病院は、都会(私から見たら、)にあったので、他の学校の話は刺激的でした。

入院は、3月上旬だったので、私は、それきり
大久保先生に会う事はありませんでした。

退院後は、春休みを挟んで、4年生になりました。

明日は、宇宙人になった姉の話をします。
本日も、有り難うございました。