ついに限界です。
私は、ヨシさんを見送ってから(実際には火葬場に行けなかったけど)自分の兄弟に知らせました。
既に私の身体は限界でした。漢方薬局に行くと先生が、これ以上薬は出せないと言われてしまいました。
病院に行って下さいと言われたのです。漢方薬では、これ以上無理です。抗生物質しか無理な状態だと言うのです。
私が病院に行きたく無かったのには、理由がありました。これまで風邪で3回大きな喘息発作を起こしました。3回とも、病院で点滴をして更に苦しくなったのです。一旦楽になるもののその後酷くなるのです。
私は、酷い状態ですが、喘息発作は起こしていなかったのです。発作があったら救急車しか方法はありません。
病院での治療は、似たり寄ったりです。
死んでもいいか。と思っていましたが、苦しいのは嫌でした。どちらにしても今の状態では、どうにもならない。漢方薬を扱っている病院に電話をしたら
予約1ヶ月待ちと言われました。
私は、病院に行く決意をしました。でも、どうせ死ぬなら、妹の近くが良いと思いました。
妹の近くの病院に行くと決めました。これが幸いしたのです。私は、病院にこれまでの話をしました。
アスピリン喘息と言われたのです。
点滴に使った保存料にアレルギー反応したと言われました。点滴は大丈夫でした。
私は、風邪では無く、肺炎でした。後にヨシさんの解剖結果の所見が郵送されました。大葉肺炎と言う病名でした。
私は、ヨシさんを見送るまで、気が張り詰めていました。入院したらそれが、どっと出ました。
色々考えては、泣きました。
身体は日増しに回復に向かっていきました。ヨシさんのサバイバルと言う言葉が浮かびました。
そうだ、私は、ヨシさんの妻なんだ。どんな状態でも、生き抜かなければ。
この頃、母は妹が引き取っていました。妹の家から歩いて病院に行けました。毎日来ては、宗教の話をして行きます。
私は、昔の感覚の私に戻っていました。私の中に世界は、無かったのです。
周りが心配しているのは、判るけど、独りになりたかったのです。入院は、1週間と聞いていました。
私は、1週間後、退院させて下さいと言いました。
先生は、驚いた顔をしていましたが、私が東京から来ていると聞いていたので、承諾してくれました。
多めの薬と近所の病院に行くように紹介状を書いてくれました。
退院した私を妹家族は、温かく迎えてくれました。
のんびり休養すれば良いと考えていたのです。
でも、私は、東京が恋しくて独りになりたかったのです。誰もいない所で思い切り泣きたかったのです。
まだ、息切れもします。でも、ここまで回復していたらどうにかなる。
私は、妹の制止も聴かず、退院した次の日に夜行バスで帰ったのです。
この続きは次回にします。
本日も、有り難うございました。